最終の目的地は九州国立博物館ですが、直接ゆかず、その前に少し歩いて、大宰府政庁跡、戒壇院、観世音寺、太宰府天満宮を見ようという算段です。
昨日の雨はすっかり上がって、気持ちの良い春の陽気に包まれているのですが、私にとっては春は決して望ましい季節ではありません。今朝の天気予報の花粉情報は「非常に多い」。まったく最悪です。
県道76号線を境に開発に規制がかかっているらしく、右手(南側)は宅地が押し寄せてきていますが、遺跡の集中する左手(北側)は、畑の中に民家が点在するのどかな景色が広がっています。
天平風の校門の水城小、学業院中を過ぎて、しばらく行くと遺跡が見えてきます。政庁の西側にあった蔵司の遺跡から始まって、いよいよ遠の朝廷、大宰府の政庁跡です。
背後に大野城のある四王寺山を見通して、礎石だけが並んだ広々とした空間が広がります。目当てを探して、さまよった視線は、正殿跡に建つ3本の石碑に止まります。近代になってから、それぞれ異なる年、異なる人々の異なる思いによって建てられたものです。
そこに大宰府の中心があったことを示すより、遠目には、過去の栄光が封じ込められた墓石に見えます。
まだまだ先があるので大宰府展示館をひやかす程度にのぞき、76号線沿いを歩いてゆくと、学校院跡を過ぎて、戒壇院の甍が見えてきます。
正式に僧侶になるための戒律を授ける施設である戒壇は国内に三箇所、東大寺、下野の薬師寺、そしてここ大宰府の観世音寺に設けられました。その後、古代の官寺の定石通り、観世音寺は、中世には衰微します。江戸時代に入り復興されますが、戒壇院は、元禄16年(1703)、福岡藩の命令で、観世音寺の管理を離れ、現在、博多にある臨済宗妙心寺派の禅寺聖福寺の末寺になっています。
善男善女を集めて随喜の涙を流させるような商売に関心があまりない臨済禅のお蔭か、境内はひっそりとしていて、観光客もちらほら来る程度。ゆったりとした気持ちになれます。
戒壇院の東隣が観世音寺です。「府の大寺」と呼ばれたこの寺の堂宇も、江戸時代に再建されたものです。過去を偲ぶよすがと言えば、講堂が南面するのに対して、金堂が東面していることです。
観世音寺はもともと東大寺末でしたが、近代になって天台宗に転じました。こちらの境内も商売っ気がなく、土曜日だと言うのに、カメラを構えて必死になっているおじさんの他は、数人の観光客がいるだけです。甍の上の鳩ものんびりと日向ぼっこをしています。
伽藍だけを見れば、すっかり寂れた古寺のようにも見えますが、しかし、この観世音寺には、平安時代の11世紀以降に作られた仏像の傑作が数多く伝存し、現在、宝蔵に保管・展示されています。これが観世音寺に来る価値のほとんどです。
観世音寺の仏像の特徴は、巨大さです。大きさは力であることを思い知らされます。展示フロアは宝蔵の2階。階段を上がると、三体の巨像がいきなり目に飛び込んできます。
中央に馬頭観音立像(像高503.0cm。重文)、右に不空羂牽観音立像(517.0cm。重文)、左に十一面観音立像(498.0cm。重文)、三体とも5mにもなる木造丈六仏(約485cm)です。遠くから見ても巨大ですが、足下に近寄り、見上げると、ますますその巨大さに圧倒されます。しかも、巨像にあり勝ちなプロポーションの乱れはなく、立ち姿はむしろ優美です。突然、観音像が声を発したら、間違いなくその場にひれ伏してしまいます。そんな偉容です。
その他の仏像も巨像とは言えないものの、低いものでも成人男性の平均身長はあります。宝蔵に移される前は、これらの諸像が、さきほど見てきた講堂、金堂に林立していました。その時代の観世音寺を訪れてみたかったです。さぞ、凄まじい圧迫感であったことでしょう。
吉祥天立像(215.5cm。重文)はふくよかな顔立ちに慈愛があふれ、また、衣紋の描写も素晴らしく、現存最古の大黒天立像(171.8cm。重文)も、一見の価値があります。左肩から大きな袋を肩にかけ、よく知られた“大黒さま”のようであるのですが、その顔は忿怒の面相で、マハーカーラの姿を残しています。
仏像が好きなら、一度は訪れておいて損はない場所です。
半日でも、その場にとどまりたかったのですが、まだまだ今日のスケジュールの半分しか消化していません。後ろ髪を引かれつつ、宝蔵を出て、天満宮へ。